「日本語が変」ってどういうこと?

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平山 亮『介護する息子たち: 男性性の死角とケアのジェンダー分析』を読んで

 

 

親を介護する際に、息子が虐待加害者になってしまうケースは、娘や嫁に比べるとかなり多い、という事実をご存じだろうか。

厚生労働省が出した要介護高齢者に対する虐待加害者の割合(平成30年度)は、息子39.9%、夫21.6%、娘17.7%、妻6.4%、息子の嫁3.8%。

平成30年度、高齢者の虐待件数をグラフで解説 | 高齢者情報.com (koureisya.com)

この事実を知り、どうしてなのか具体的に知りたいと考えたのが本書に触れたきっかけだった。

結論から言うと、この本は男性が自分自身の心のケアをするきっかけになる本だと感じ、感銘を受けた。特に介護という状況に置かれていなくとも、配偶者もしくは本来守るべき対象にキレてしまう自分をどうにかしたいと悩んでいる、男女どちらもが読むべきだとも思った。自分はこの本で語られる「息子」に自身を投影しながら読み、とても身につまされた。

 

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本書で分析され指摘されているのは、公的領域における(男性どうしの)社会関係においてのみ自立している男性像である。私的領域即ちプライヴェートにおいて、いかなるケアがその男性に施されていたとしても、公的領域においては不問に付し話したがらないという。

 

例えば、フルタイム勤務の既婚者の男性で、自らを自律的で自立している個人だと認識しているケース。その男性の家庭の維持に必要な見えにくいケア労働は女性が担っている。この場合、男性は女性のケアに依存しているのにも関わらず、彼が自らを自律的で自立している個人だと見なしたいがために、その依存先やケアは矮小化される。彼に扶養される妻や母親、その他家族は、彼に従属していると彼は考える。

 

ケアや弱さとは無縁の、自律的で自立している個人であることが男性役割として尊ばれ、日本の社会で大きな価値を持ち、その反面女性が担う家庭内でのケアが軽視されてきたという指摘は、女性の政治参画が先進国の中で最も進んでいない日本の現状と照らし合わせても頷けるし、他所で何度も指摘されていることだろう。日本社会で優勢な地位を持っている男性、年収が高い男性ほど、「夫は外で働き、妻は家を守るべき」という性別役割に賛成するという。

問題は、なぜ男性が自分自身がケアされることを語りたがらないのかということである。(もう一つの興味深い指摘として、男性は「父親としての自分」については語りたがる傾向にあるのに対し、「息子としての自分」については口を閉ざす傾向にあるというのもあった。)

また、息子が虐待加害者になる背景には、介護する息子が「思わず」暴力的になってしまう姿を、「ありそうなこと」「理解可能」だと感じてしまう世間の認知の歪みが存在する。虐待被害者が母親であった場合、息子からの虐待を甘受してしまうケースが多いという。これに対し筆者は以下のように述べる。

 

「心身の機能の低下によって、母親が関係調整役としての機能を果たせなくなり、それによる混乱やままならなさに突き動かされて、母親を攻撃してしまう息子。それが理解可能になるのは、男性が家庭において社会関係を調整・管理してもらわなければいけない存在であり、また、生じた感情に『されるがまま』の存在であることを自明としているからこそである。虐待する息子への見方・語られ方を手掛かりにした『息子性』の分析から示されたのは、常に既に行われている依存を『なかったこと』にしながら自立と自律を志向するという、矛盾と欺瞞に満ちた男性性のありようだった。」

 

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ケアを必要とする個人を想定してみてほしい。

子供であったり、何らかの事情で心身が弱っている、生活する上で他者に依存せざるを得ない存在。そのような個人のケアをするとはどういうことか。

「ケアをすることとは、相手の生殺与奪権がすぐ手元にある状態で、それを行使しないことであり、言い換えれば、支配者となる/支配者であることから『降りる』実践に他ならない。」と本書は語る。

 

依存先になると同時に支配者であることから「降りる」ことの難しさ。

従属させることなしに相手の依存先になることの難しさ。

これらについて考える時、暗澹たる気持ちになる。なるからこそ、今回この本のことをブログに書きたいと思った。男性を批判したい気持ちが根幹にあるわけではない。

社会人を取り巻く空気が自分自身へのケアを語ることを恥とするようなものであったなら、まずそれがおかしいのだろう。

だがこれだけは痛切に感じることがある。自分へのケアを「なかったこと」にした上で、自らを自律的で自立した大人だとする、高下駄を履かされていることに死ぬまで気づかない人間が日本社会を牛耳っている場合、老若男女に対するケアに焦点が当てられる日は永遠に来ないだろう。

 

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