「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

死を生み出す「深淵」に落ち込まないためには?

イスラム過激派が関わる事件についての報道と、それを取り巻く反応を見て、ここ1、2週間ずっと暗鬱な気持ちになっている。そんな中、漠然と感じていたことを文章にしてくれた人がいた。

小説家の高橋源一郎さん。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/08/genichiro-takahashi-terrorism_n_6638674.html

”「テロリズム」は絶望から生まれる。希望がないから破壊にすがるしかないのだ。だから、いくら滅ぼしても、希望がない場所では「テロリズム」は再生する。”

”彼らの最大の特徴は「他者への人間的共感の完璧な欠如」だ。だが、これは「テロリズム」の形をとらずに、ぼくたちの周りにも広がっている。いちばん恐ろしいのはそのことだ。死を産み出す「深淵」は、実はぼくたちの近くにある。”(リンク先本文より引用)

 

今の日本では、誰かが「世界平和」という言葉を使うと、一斉に「綺麗ごと」「脳内お花畑」のような露悪的なレスポンスが返ってくる。

だが、21世紀という時代について考えたとき、これから特定の国・地域・人々だけが富や安全を享受できる世の中になっていくだろうか?答えは否で、むしろ、どこかで起きている破壊と絶望が、一人勝ちを好む人々を、どこでもグローバルに襲う時代になっていくだろう。

だから、人間が絶望して加害者になる過程を他人事だと思わない。遠回りに見えても地道で草の根的な行為を続けていく。それが、中東で取材する中でISILにシリアで拘束され、殺害されてしまったジャーナリストの後藤健二さんがやっていたことだと私は個人的に理解している。

そしてそんな後藤さんに対し心無い言葉を吐く人たち。簡単に言えば、「他人に迷惑をかけるな」という趣旨のコメントを何百回も見た。

これまでに何度、この現象が起きているだろう。何か事件が起きれば被害者の方にさえ迷惑をかけるなとコメントする人がどうしてこんなに増えたのだろう?

生きている限り人間は他の人間に影響を与えずにはいられないのに、なぜ息を殺して身をひそめるような、生の喜びを真っ向から否定するような生き方を推奨するのだろう。

私は、本当に小さい子供の時は、自分が生きていることに対する全力の肯定感とともに生きていた気がする。

だが大人になるにつれて、「人生の酸いも甘いも」の「酸い」のところを味わって、生きることを肯定できないようなダークな深淵に落ち込むことも確かにある。

そのダーク面に、常に落ち込んでるような思想の持ち主が多すぎないだろうか?高橋さんいうところの「死を生み出す深淵」をこんな平和な日本で抱えて生きている自分について、どうか冷静に客観視してほしい。

私は何となくこんな風に感じている。本当はみんな、悲しくて仕方がないんじゃないのだろうか。本当は、同じ日本人が殺されたことがつらくてイライラしているんじゃないだろうか。無力感と罪悪感に打ちひしがれて攻撃的な反応をしてしまっているのではないだろうか。

だが、絶望したから攻撃的になるのでは、やっていることがテロと同じだ。

だとしたら、日本人は無力感と罪悪感とどう向き合って生きていくべきなんだろう。そこから高橋さんのいう生きるに値する世界を発見するためにはどうしたらいいのだろう。

最近そればかりずっと考えている。

 

 

ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白

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ジャーナリスト 後藤健二

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