「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

こんまり先生に教わるグローバルに成功する人の「母語コンテンツ」

Netflixに加入して半年ほど経つ。お宅改造系やインテリア・建築系などの好きなジャンルを見ていたら、「KonMari ~人生がときめく片づけの魔法~」をNetflixからお勧めされた。

こんまり先生と言えば、日本で『人生がときめく片づけの魔法』がベストセラーになって、私自身も学生時代に多大なる影響を受けた片付けの先生である。

その時、こんまり先生がアメリカ進出していることを遅まきながら知った。

彼女は「ときめき」を重視した空間づくりで名高い。全てのモノを収納からいったん全部取り出し、一か所に集める。一つずつ手に取って、「ときめきを感じる」モノは残し、感じなかったモノは捨てる。原則はそれだけ。

この片付け方がどのように私に影響を与えたのかというと、いかに自分にとって魅力のない、ときめきが過ぎ去ったモノに囲まれて生きてきたか気が付いたのだ。

周りに溢れるモノを取捨選択できない、それは自らの人生において何が大事か選び取る力がないということだ。うず高く積もった埃と魅力のないモノに囲まれ、何か「選ぶ」ということさえ億劫になっていく。

資本主義社会に埋もれ沈没していくこの危険。気づかせてくれたのがこんまり先生だった。

***

今やKonMari先生の本はアメリカで900万部を超えるベストセラー。

そんな先生がカオスと化したアメリカ人のクライアントの家を訪問する(土地がデカいから置く場所がありすぎてモノの量も桁外れ。特にガレージがえらいことになっている)。

一か月くらいかけてモノが散らからない空間づくりのヒントとそこに至る精神の在り方を伝授してくれるのだが、その時KonMari先生は英語ではなく、主に日本語で話している(特に胸が「キュンっとする」の「キュンっ」を日本語で説明しており、通じているのが印象的だった)

挨拶や「ときめきの大原則」など、必要最小限の内容は直接クライアントと英語でやり取りしているものの、優秀な通訳の日本人女性がKonMari先生の言ったことを的確に同時通訳しているのだ。

***

英才教育として幼稚園くらいの子供に毎日英語を習わせたり、芸能人など富裕層がインター校に子供を入れたいと願う。その教育方針に文句を言う筋合いはないし、日英のバイリンガルになれたら素晴らしいことだ。しかし一方でこう思うのだ。その子供たちは将来みな通訳者になりたいのだろうか。通訳になれなかった場合、その子に残された「コンテンツ」は、果たして「語れること」なのだろうか?

 私は帰国子女に国語・日本語を教える経験の中で、度重なる親の仕事の移動に付き合った結果、または安易なバイリンガル教育の結果、英語でも日本語でも「語れること」を何も持たない、自分自身の進路を決めることすらできない無気力な子供たちを知っている。

だから、特に親の世代の人に訴えたい。英語さえ話せれば成功すると思っているのならそれは間違いだ。グローバルに成功する人に語学力は必要不可欠ではない。日本で成功した報酬で優秀な通訳を雇えばいいからだ。

英語が堪能で、外国人と意思の疎通ができることは、グローバルに活躍する人生において確かに重要だろう。だが、それ以上に重要なのは、英語に翻訳するに足る「母語コンテンツ」が、「語れること」が頭の中にあることだ。

母語である日本語をおろそかにしてバイリンガル教育を施した結果、子供から奪い取られる可能性があるのがこの「母語コンテンツ」だと私は思っている。

Netflixまで進出したこんまり先生の存在は、私たち日本人に、まず母語で「語れること」即ち「母語コンテンツ」を育てて成功するやり方を示唆している。

Copyright (C) 2014 境界線からアンコールAll Rights Reserved.