「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

鴨居玲展へ行った話

    鴨居玲

 何となく気になっていた画家だったので、東京ステーションギャラリーでの展示を見に行ってみた。特に強く訴えかけてくる絵、痛烈に感じる絵があったので忘れないうちに文章化しておく。

 

 まず、この絵、「教会」(1976)。

f:id:yuberita:20150805185004j:plain

 

  私は特定の宗教を信仰していない。

 宗教というものが人々の生きる希望となり、その一方で互いに殺しあう原因になる、そこまで重要なものだという実感が私にはない。

 鴨居もおそらく同じようなこと、つまり宗教に対する疎外感を感じていたのだろう。

 浮遊し、(現実感がなく)、出入り口のない(自分がそこに入ることはできない)タテモノ。

 堅牢な要塞にも見える。そしてどこか哀しく美しく、見るものの心を沈静化する。

 対比的に思い出されたのが、5年ほど前ヨーロッパ旅行をした時に、お腹一杯になるくらい見た宗教画の数々だった。

 

****

 

 ニースでシャガール美術館に行った。ユダヤ人として生まれ、迫害される側であったシャガールが、祈る場をつくろうとして、朽ちかけた教会を見つけ、そこに飾るために宗教画を描いた。結局、教会はなくなってしまったが、彼が描いた宗教画だけは残り、それを集めたという美術館だった。

 そこでは絵にガラスケースがつけられておらず、絵の前に線も引いておらず、特に熱心に監視してくる人もいなかったので、絵肌が見えるくらい近くに寄ることができた。絵具のチューブをそのまま押し付けたように毛羽立った箇所、逆にキャンバスの白い地がそのまま見えるようなところもあった。光り輝くような色彩と古代の壁画のようにデフォルメされた描写で、聖書をモチーフとした絵が描かれていた。信じる心は純粋で、人種や民族に左右されないという彼の強い気持ちが、炸裂しているようであった。

 その後、イタリアへ行き、ウフツィ美術館で「受胎告知」をはじめとする綿密な宗教画を見た。圧倒された。絵の一つ一つが、私が画集などで想像していたのと比べて、とにかくデカいのだ。書き込みの密度から考えて、絵具の量を考えても、実際は半分の大きさでも描き上げることは難しいだろうと思われる作品が、六畳分くらいの面積で描かれていた。旅の同行者が呆れたように「一体何のためにここまで…」とつぶやいていた。

 神と祈りに捧げるためならば、ここまで大きなものを時間と体力を費やして描くことができる。人間はそこまで無私になれることができるのだ。芸術とは、無私の決定的な瞬間をとらえたものなのだ。

 そのときそう思った。芸術家の自己顕示欲が、宗教の力を借りて無私に近づくのを目の当たりにした。

 

****

 

 宗教は芸術にとって強烈なモチーフになりえる。

 だが、モチーフがなくなった芸術家はどうするか。

 鴨居玲は、1985年に57歳で自殺している。創作に行き詰まり、自殺未遂を繰り返したそうだ。展覧会では、南米やヨーロッパ滞在で得た画題や自画像の後、続く画題が見つからず、鴨居が苦しんでいたことが伝えられていた。

「私」(1982)という絵。

f:id:yuberita:20150805185055j:plain

 

  白いままのキャンバスを前に、途方に暮れて口をポカンと空けている画家。ムンク「叫び」に描かれたあの人のように、とてつもない苦悩を宿しているように見える。絵の周りを取り囲むのは、鴨居がこれまで描いて、世間から評価を得た画題、モチーフたち。

 このあと展示されている自画像は、この絵も含め、前に立ってみると壮絶に怖い。

 

 ところで、「モチーフ」は元々フランス語だが、英語だとMotive、モチベーションという意味になる。モチベーションがモチーフになる。画家にとって動機と絵の主題は、切っても切り離せないということだ。

 私は芸術家ではないから、ここまで優れた描写力を持ちながら、かつてのモチーフが過ぎ去り、今はモチベーションがない、という画家の苦悩のすさまじさを、理解できるといったらおこがましい。

 だが、口をポカンと空けた似た顔を、近所の市役所のロビーで公園のベンチで学生服を着た姿で、見ることがある。もしかしたら自分もそんな顔して歩いてるかもしれないと思う。

 ひとたびネットに繋がれば、強烈な人びとの自己顕示欲が散見される。しかし自分自分の承認欲求とは裏腹に、人びとは自己がゴミクズになってしまってもいいと思えるような、それこそ強烈な「モチーフ」を、常に血眼になって探しているようにも見える。無私と自己陶酔の間に、祈りと自己顕示欲の間に存在するもの。

  鴨居の描いた「教会」の絵のように、他人のモチーフはあくまで他人のもので、自分が消滅し一体になってもいいと思えるほどの陶酔を捧げることはできない。

 自分のモチーフを探しあぐねる人間が、羨ましさをこめて、それでも美しいものとして見上げたのがあの「教会」だったのだと思う。

 

 

鴨居玲 死を見つめる男

鴨居玲 死を見つめる男

 

 

Copyright (C) 2014 境界線からアンコールAll Rights Reserved.