「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

三島由紀夫『禁色』と切腹

常々、「切腹」って何だろうと思っていました。新渡戸稲造千葉徳爾によれば、古来日本人は腹が人間の本心を内部に存在させる場所であるという意識があり、腹を切ることで自分の本心があかき清きものであることを証明しようとした、ということらしいです。

三島由紀夫の最後が割腹自殺であることはよく知られてますが、三島由紀夫切腹の作法を教えた中康弘通という人の説によれば、切腹が好まれるのは切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感を伴うから。という考え方もあるみたいです。

人は、というより三島は、なにを思ってそんなにも「切腹」という行為に魅せられていたのでしょう。

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三島作品の『禁色』は、
醜い容貌を持ち女性に裏切られ続けてきた老作家・俊輔が、同性愛者の美青年・悠一と出会い、彼を利用することでこれまで自分を裏切ってきた女性に復讐する、というお話なのですが、物語が進むうちに元来はその気のなかった老作家が美青年に恋情に似たものを感じだすこともあり、当時は同性愛をモチーフにしたショッキングな作品という受け取られ方が大半だったようです。

ですが、「ベニスに死す」が単なるホモ映画ではないように、この小説も同性愛が扱われてはいますがそれだけではない読後感がありました。

例えばこんなくだりがあります。
『彼(俊輔)の確信によれば、芸術作品は自然同様に決して「精神」を持ってはならなかった、いわんや思想をや!精神の不在によって精神を証明し、思想の不在によって思想を証明し、生の不在によって生を証明する。それこそは芸術作品の逆説的な使命である。ひいては美の使命であり性格である。』

『俊輔は終生果たせなかった理想的な芸術作品の制作を企てた。肉体を素材として精神に挑戦し、生活を素材にして芸術に挑戦するような、世にも逆説的な芸術作品…』

『結局俺は、悠一が誰のものでもないことが怖いのだ。それならどうして俺が?いや、俺ではいけない。鏡をまともに見ることさえできない俺ではいけない…それに、作品は断じて作者のものではない』

…つまり老作家俊輔は、自分が女性に愛されなかった青春の復讐を悠一を使って果たそうとしただけでなく、自らの芸術作品として悠一を見つめ愛していたことが伺えます。
悠一は俊輔にとって美の化身であるために、美を表現する芸術家である俊輔は、下品な言い方ですが悠一を「モノにする」ことができません。

最終的に俊輔は自死を選ぶのですが、終盤にこんなくだりもあります。
『此岸にあって到達すべからざるもの。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで片時も安眠できない。』

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以下からは「切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感」という説の、「エロティシズム」という言葉に注目して考えてみます。

中沢新一が「純粋な自然の贈与」で、
『プリミティブな社会では、女性は富を生産する可能性を秘めたヴァーチャルな価値物と考えられていた。社会集団は、富を生産するヴァーチャルな可能性を交換しあっているわけだから、ここでは本当のところ贈与の現象が起こっているのである。贈与はものを結びつけるエロスの力を持ち、エロスは動きながら、みずからの力を更新していく。人が人に、贈り物を贈る。そのとき贈り物となった「もの」と、それを贈ったり、もらったりする「ひと」の間には、深い実存的なきずなが発生する。』
と述べているのですが、

このように、人やものを結びつけるエロスの意味で、切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感を伴うから』という説に「エロティシズム」が使われているのなら、私は少し切腹の意味がわかったような気がするのです。

つまり、例えば「禁色」の主人公の俊輔が小説という方法で達し得なかった此岸の美は、「精神」への挑戦であった。
精神と自然、すなわち精神と美という対立を結びつけるエロティシズムが、彼の場合、自死という方法だったのではないでしょうか。

そして自死の中でも割腹という行為は、新渡戸稲造が言うように『人間の本心が腹にあるからそれをさらけ出して潔白を証明する』というよりはむしろ、人間のうちにひそむ「自然」を曝け出す行為であるのかもしれません。

そういうやり方で三島は此岸にありながら手に入らない「美」に手を伸ばそうとしたのではないでしょうか。

「精神」といういつの間にかに高尚なもののように定義されているものと、自分の身体との乖離を感じることは私にも時々あります。
こんな長い理屈っぽいものを書いたりしてますが、実際自分のおなかの中がどのようになっているか良く分かりません。でも「精神」と身体性の間の隔たりを解消し二つを統合するためには、自死と同じくらいの何かが必要なのだとしたら。

「精神」が一人歩きしているようなこのインターネット空間と、おいてきぼりにされている人間の身体のこと。
「精神」の名のもとに学習者の身体を束縛する教育のこと。
色々考えなくちゃならないことがありそうです。

 

最後に、フーコーの『監獄の誕生』より引用
「ある政治解剖の成果にして道具たる精神

そして身体の監獄たる精神。」

 

禁色 (新潮文庫)

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監獄の誕生 ― 監視と処罰

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