「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

ダイアログ・イン・ザ・ダーク

そういえば、心に焼きついて離れないような体験をしたのに文字化を怠っていたことの一つに、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」がある。以下、これから体験予定の人は、感動が薄まると思うで、なるべくならこの記事は読まないでもらいたい。
 

http://www.dialoginthedark.com/

 

私が行った際は、赤坂にある廃校になった小学校で開催されていた。
ワークショップ形式の展覧会なのだけど、展覧会といっても何も見ることはできない。

一体どう説明したものか。本当に何も見えない、上下左右もまったくわからない暗闇の中で、目の見えない人に導かれて進んでいく、という形式なのだ。

このワークショップは完全予約制なので、一回8人ほどのメンバーしか参加できない。私は友達と参加したのでそのうち3人が既に顔見知りだったが、あとはもちろんその場限りの知らない人たち。

一番最初に自己紹介をして一応お互いの名前を把握し、あとはそれだけの関係の他人と、真っ暗闇の中、身を寄せ合ってじりじりと進んでいくというとんでもないツアーだった。

あんなに広い暗闇をいったいどうやって作ったのか?
学校の体育館か何かだったものに真っ黒な布をかけてすっぽりと覆ってしまい、なおかつ雨戸と言う雨戸を全部締め一切の光を遮断したのか…。

とりあえずそんな自分の手すら見えないような暗闇の中を、階段、教室からはじまって土の地面が川になっているような場所、上がったり下がったり、這いまわったりくぐり抜けたりしながらひたすら進む。

今、一生懸命その時のことを思い出そうとしながらこれを書いているのだけど、視覚として残っているのは「闇」だけなので大変つらい。思い出せるのは「感覚」のみだから。
茫漠とした闇に放り出され、自分と周りの境界線がアヤフヤになり、自分が外の世界に溶け出してしまうような不安とか、
まるで目隠し鬼のように人の存在を求めて彷徨う自分の頼りなさとか、
誰かにぶつかった時の安心感とか。

視覚障害のある方が、必ず1グループに一人、ガイドとしてついてくれているので、グループが本当に霧散してしまうことはない。そのガイドが8人のメンバーの誰がどこにいるかすぐ把握しているからだ。彼は「前方に~があるから気をつけてください」とか「~さんのあたりに○○がありますね」とか、グループだけでなくその周りの空間も把握していた。

最初は本当に濃い暗闇に慌てふためいていていたため気がつかなかったのですが、ガイドは常に遅れがちな人の後方に立ってサポートしたり、教室の扉を開ける時誰かが体を挟まないように戸袋の前に立ってガードしていたりもしていた。

ガイドが大変頼もしい存在だったことは確かですが、それだけでなく、その日一緒に参加した知らない人たちの存在がとても有難く温かかった。
ダイアログインザダークでは、誰かとぶつかった場合必ず自己紹介することがルールであり、私はなぜか何度もWさんという名前の30代くらいの女の人とぶつかって何度も自己紹介しあっていた。きっと、友達になれたのだろう…

もちろんツアーのあと自然解散したので再び会うこともないだろうが、あの時の共同体と、あの時のあの人たちと、もう会わない、行動を共にすることがないと思うと不思議な気分になる。

それだけ、「他人」という存在の持つ意味が「見える世界」とは異なっていた。

視覚障害のある人がない人たちのガイドとして導くことから、「障害者―健常者との助けられる―助ける関係が逆転する」というような形容の仕方もあるのかもしれないけれど、
赤の他人がこんなに愛しく思えることがあるだろうか。その衝撃の方が忘れられない。
暗闇の世界の共同体とでもいうべきか…。
まあとにかく不謹慎なモノ言いなのかもしれないけれど、視覚を奪われた者が蠢く暗闇というのは、私にとっては物凄くエロティックな体験だった。

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