「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

国語教育とは、日本語教育とは。

 私はこれまで、海外から日本へ、または日本から海外へ移動してきたJSL(Japanese as Second Languageつまり日本語を第二言語として学ぶ)生徒への日本語指導や国語指導に携わってきた。

 公立の学校で日本語指導員として働いていた大学院生時代、教えていた生徒が不登校になってしまったことがある。その生徒は学校の外に母語話者のネットワークがあり、第二外国語としての日本語を学ぶ必要性を感じにくいようだった。授業の内容からも生徒同士の会話のやり取りからも疎外されたその生徒は、徐々に明るさを失っていき、やがて学校には来なくなってしまった。

 大人に随伴する形で移動させられたJSL生徒は、それまで時間と労力をかけて培ってきた人間関係や学びから分断され、心ならずも再スタートを切る。過酷とも言える状況の中で、再び新たに主体的に参加できる場を得ようと、必死でもがいている。

  私が理想とする「国語教育」とは、彼らのその不屈の強さを尊重して引き出し、それぞれが生きていくために必要なネットワークにおける自己表現の力に昇華させていくことだ。

 生徒各々が形成しているネットワークや、そこで起こる様々な物語を、たとえば文学作品を触媒にして引き出しながら、互いの自己表現を高めあうことができないだろうか。生徒の文学鑑賞に対して、なぜそう感じたのかと問いかければ、必ずその生徒の価値観や思想の基盤になる体験が顔を出す。次はその表現を他の生徒が理解できるように、生徒同士の相互作用によって推敲していく。

 宮沢賢治の『よだかの星』を読んだ時、「よだかは自分自身に勝った。」という感想と、「よだかは自分自身に敗北した。」という感想が一つの教室で出たことがあった。違う感想を持つ他者の感想と自分の感想が並ぶことによって、そこにある差異に気付く、その気づきが、作品を読んでいる他者の読みと自らの読みを出入りしながら自らの価値観や思想を相対化することに繋がる。それは差異を認めることでもあり、人間関係の在り方を学ぶことでもある。

 

 余談だが、優れた芸術作品とは何を指すだろう。個人的な定義になるが、作者の伝えたい事がそれとわかる形で表れず、直接的な表現を抜きにしていかに受け手に気付かせるか、考えられて作られているものだと思う。同じ文学作品を読みながら、全く違う感想を持つ他者が現れるというのが、優れた文学作品を共同で読む上での醍醐味と言えるのではないか。

 

 学校教育とは、前述のJSL生徒のような立場の生徒から、力を奪い弱らせる場であっていいはずがない。むしろ学校教育に主体的に参加することができない生徒にこそ、生きる力を付与し、エンパワーメントする場であるべきだ。その際に最も的確なアプローチができるのが「国語教育」であり、「日本語教育」であり、生徒が新たなネットワークを構築するために自己表現する力を体得する環境を整えるのが自分に出来ることだと考えている。

 

宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)

宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)

 
「移動する子どもたち」の考える力とリテラシー

「移動する子どもたち」の考える力とリテラシー

 

 ↑ この本の、第10章「移動する子どもたち」の「ことばの力」を問う 内にある『学校に通うことができないJSL生徒のことばの学びをどう捉えるか』という論文を書きました。 

 

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