「日本語が変」ってどういうこと?

国語・日本語教師によるブログ。教育トピックのほか、趣味のアート鑑賞についても書いています。HP…https://japabee.wixsite.com/japabee-japanese

角田光代『対岸の彼女』を読んで

対岸の彼女 (文春文庫)

 

facebookがわりと好きだ。

巷では、リア充の自慢のための媒体なんて言われているのを目にするし、実際にその側面があると感じている。

それでも、なんとなく好きだ。

私がfacebookで繋がっている人、すなわち「友人」は、中高一貫の女子校に通っていた時に同じ学年だった人、つまりほぼ女性で構成されている。実は、在学時代に話したことがなかった人もいる。それでも、卒業後10年以上経って、彼女らがどのような動向をたどっているかを見ることが、変な言い方だが私の癒しになっている。

女性の人生は多様。自分の選ばなかった人生をたどる彼女らの生き方を、自分の人生のアナザーヴァージョンとして重ね合わせて見ているところがある。

しかし、それだけではない。以下からは角田光代さんの小説の書評という形を借りてそのことを話したい。

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角田光代の作品『対岸の彼女』では、二つの物語が交互に語られている。その一つが、家庭環境にストレスを感じ、逃げるようにして一緒に過ごしていた「葵」と「ナナコ」が、互いの存在なしには生きられないくらい密着していき、やがて離ればなれになる物語である。

人は誰でも自分の中に圧倒的な他者、つまり自らの考え方や生き方に影響を与える大きな存在を持っているのではないか。多くの子どもにとって親はそのような存在であるし、中高生になってからは友人がそのような存在になるケースが多い、ようだ。

 私にも中高生の頃ずっと一緒にいた友人がいた。毎日他愛もないことでバカ笑いしたかと思えば、なぜ生きるのかというような哲学的な問題を、額をくっつけるようにして話し合ったものだ。その友人とは今でも交流があるが、あの時のように訳もわからず、くっつきあっていた時間は大人になった今もう味わえないだろう。

一度、一つになるかのようにくっつきあった存在とは、必ず別れるものだ。しかし、それは必ずしもネガティブなことだとも言い切れない。

それはなぜか。

私は一度でもかかわった友人たちのことを考える時、その人たちがどこかで何かをやっていると考えるだけで、それが自分の勇気や生きる希望になるような、許しを与えてもらっているような気持ちになる。無宗教である私とって、そういう人たちの存在はもう、神さまのようなものだ。時を経て一緒にいられなくなったとしても、向こう岸に彼らがいると思うことが私の生きる活力となる。対岸に、遠いところに神さまがいることが私の心の支えになっている。

対岸の神様。

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ということで、私にとって、自分の選ばなかった人生を選んで生きている彼女たちは、変な言い方だが「神様」なのだ。

一緒にいる時間が終わりを告げ、別々の人生を歩むことになっても、一緒にいた記憶自体が生涯の宝物となるような存在。

この記憶の宝物と、神様を思う気持ちとがあれば、どんなに遠い場所でたとえ一人きりになっても、なんとか生きていける気がする。

 

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

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