こんまり先生に教わるグローバルに成功する人の「母語コンテンツ」
Netflixに加入して半年ほど経つ。お宅改造系やインテリア・建築系などの好きなジャンルを見ていたら、「KonMari ~人生がときめく片づけの魔法~」をNetflixからお勧めされた。
こんまり先生と言えば、日本で『人生がときめく片づけの魔法』がベストセラーになって、私自身も学生時代に多大なる影響を受けた片付けの先生である。
その時、こんまり先生がアメリカ進出していることを遅まきながら知った。
彼女は「ときめき」を重視した空間づくりで名高い。全てのモノを収納からいったん全部取り出し、一か所に集める。一つずつ手に取って、「ときめきを感じる」モノは残し、感じなかったモノは捨てる。原則はそれだけ。
この片付け方がどのように私に影響を与えたのかというと、いかに自分にとって魅力のない、ときめきが過ぎ去ったモノに囲まれて生きてきたか気が付いたのだ。
周りに溢れるモノを取捨選択できない、それは自らの人生において何が大事か選び取る力がないということだ。うず高く積もった埃と魅力のないモノに囲まれ、何か「選ぶ」ということさえ億劫になっていく。
資本主義社会に埋もれ沈没していくこの危険。気づかせてくれたのがこんまり先生だった。
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今やKonMari先生の本はアメリカで900万部を超えるベストセラー。
そんな先生がカオスと化したアメリカ人のクライアントの家を訪問する(土地がデカいから置く場所がありすぎてモノの量も桁外れ。特にガレージがえらいことになっている)。
一か月くらいかけてモノが散らからない空間づくりのヒントとそこに至る精神の在り方を伝授してくれるのだが、その時KonMari先生は英語ではなく、主に日本語で話している(特に胸が「キュンっとする」の「キュンっ」を日本語で説明しており、通じているのが印象的だった)。
挨拶や「ときめきの大原則」など、必要最小限の内容は直接クライアントと英語でやり取りしているものの、優秀な通訳の日本人女性がKonMari先生の言ったことを的確に同時通訳しているのだ。
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英才教育として幼稚園くらいの子供に毎日英語を習わせたり、芸能人など富裕層がインター校に子供を入れたいと願う。その教育方針に文句を言う筋合いはないし、日英のバイリンガルになれたら素晴らしいことだ。しかし一方でこう思うのだ。その子供たちは将来みな通訳者になりたいのだろうか。通訳になれなかった場合、その子に残された「コンテンツ」は、果たして「語れること」なのだろうか?
私は帰国子女に国語・日本語を教える経験の中で、度重なる親の仕事の移動に付き合った結果、または安易なバイリンガル教育の結果、英語でも日本語でも「語れること」を何も持たない、自分自身の進路を決めることすらできない無気力な子供たちを知っている。
だから、特に親の世代の人に訴えたい。英語さえ話せれば成功すると思っているのならそれは間違いだ。グローバルに成功する人に語学力は必要不可欠ではない。日本で成功した報酬で優秀な通訳を雇えばいいからだ。
英語が堪能で、外国人と意思の疎通ができることは、グローバルに活躍する人生において確かに重要だろう。だが、それ以上に重要なのは、英語に翻訳するに足る「母語コンテンツ」が、「語れること」が頭の中にあることだ。
母語である日本語をおろそかにしてバイリンガル教育を施した結果、子供から奪い取られる可能性があるのがこの「母語コンテンツ」だと私は思っている。
Netflixまで進出したこんまり先生の存在は、私たち日本人に、まず母語で「語れること」即ち「母語コンテンツ」を育てて成功するやり方を示唆している。
ダフナ・ジョエル&ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳――性別を超える脳の多様性』を読んで
「あなたが書くものはとても男性的ね。男性が書いた文章を読んでいるみたい。」
高校生の時、私が書いたレポートを読んで国語教師が呟いた。
その時既に、自分の頭の中身はいわゆる女性じゃないかもしれないと思っていたので、教師の指摘に対して、自分の本性を見抜いてもらったことへの安堵と、何とも言えない困惑とを同時に感じた。そして、自らの意思ではなく課されて書いた文章であっても、「自分」というものが露見してしまうことへの感嘆と畏怖とを覚えた。思えば人の書いた文章を読みあれこれ言う職業への道はこの時ひらけたのかもしれない。
まあそんな感じで、職業については割と早く方向性が定まったものの、「女性ではなく別物な気がする」性自認については中々受け入れられず、その後さんざん寄り道をしてしまった感がある。化粧やファッションに気を遣い「女らしく」なれば違和感が消えるのかと思っていた。全くそんなことはなかった。1990年代や2000年代は、今と違い、LGBTQという言葉が広く知られてはいなかったし、インターネットで気軽に性別違和診断を受けることもできなかった。調べようともしていなかったから、トランスジェンダー外来が存在していたかどうかも定かではない(話は逸れるが日本ではいまだに心療内科に通うことがあまり気軽に受け止められておらずそこも問題だとは思う)。
そして今、女性として生を受けたものの性自認としては女性ではない自分を受け入れながら、元々ない母性を虚空から絞り出して子育てをしている。
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『ジェンダーと脳――性別を超える脳の多様性』という本によれば、性別は脳に影響を及ぼすが、「真の」男脳や女脳というものは存在しないという。ヒトの脳は女性的でも男性的でもない。それは女性的な特徴と、男性的な特徴から構成されるモザイクである。しかもそのモザイクは一生を通じて変化し続ける。大半の人が男または女の生殖器のみを持つのに対し、脳に性別を与えるとすると、大多数の人が「間性」になるという。
2017年にチャイルド・ディベロップメント誌に掲載された研究では、467人の男女の小学1年生、3年生、5年生に、「自分を自身のジェンダーに近いと感じるか、あるいは反対側に近いと感じるか」と尋ねたところ、30%が自身のジェンダーらしく感じると答えた一方で、約17%がどちらのジェンダーにも近いと思わないと答えた。
こうなってくるとそもそもジェンダーで分ける意義について疑問が生じるが、それに対し本書はこう述べる。
「ジェンダーとは、各人に固有の資質を求めるのではなく、性別に意味を与え、男女に異なる役割、地位、権力を割り振る社会システムとして存在する。この社会システムは私たちの人生に多大な影響を及ぼし、人のモザイク集団を二分する。」
「子どもたちにジェンダーという情動の拘束衣を着せることで、権力に手を伸ばせない女性と、感情を見せることを許されない男性を育てあげている。」
ある大学で行われた研究によれば、男らしさの規範(①自信に満ち溢れていること②プレイボーイらしく振る舞うこと③女性を従わせること)に従うことを強要された男性は、そうでなかった男性に比べて、うつ病や薬物乱用に陥りやすく、心理学的な治療を自ら求めることが少ないという。
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ところで、本書で知り、とても勇気づけられたデータがある。
第一子を育てている異性愛カップルでは、父親と母親で脳活動のパターンがいくらか異なるのだが、子育てで主導的な役割を果たしているゲイの父親では、異性愛カップルの父親と母親双方に類似する脳活動パターンを示したという。つまり、研究に参加した男性は、子育て上の役割に影響を受け、脳が変化していたということになる。
先ほど書いた「ない母性を虚空から絞り出して子育てしている」という描写から、私の子育ての雰囲気が伝わってしまうことが懸念されるが、
性自認が男だろうが女だろうが、そこは脳のモザイクを変化させてでも、自分を作り変えてやるしかないだろう、という強い決意と戒めに導いてくれたのが本書だった。
女性らしくないから家事育児苦手なんだよね、とかもう言ってられないのである。そもそも女脳とか男脳なんてないんだし。
という訳で、そこに勇気づけられるか?という独特過ぎる観点でこのブログは終わるが、性別とジェンダーに対する固定観念に疑問を持っている人はぜひ本書を手に取ってみてほしい。自分の中にあるジェンダーバイナリーの偏見にも気づくことが出来る良書だと思う。
平山 亮『介護する息子たち: 男性性の死角とケアのジェンダー分析』を読んで
親を介護する際に、息子が虐待加害者になってしまうケースは、娘や嫁に比べるとかなり多い、という事実をご存じだろうか。
厚生労働省が出した要介護高齢者に対する虐待加害者の割合(平成30年度)は、息子39.9%、夫21.6%、娘17.7%、妻6.4%、息子の嫁3.8%。
平成30年度、高齢者の虐待件数をグラフで解説 | 高齢者情報.com (koureisya.com)
この事実を知り、どうしてなのか具体的に知りたいと考えたのが本書に触れたきっかけだった。
結論から言うと、この本は男性が自分自身の心のケアをするきっかけになる本だと感じ、感銘を受けた。特に介護という状況に置かれていなくとも、配偶者もしくは本来守るべき対象にキレてしまう自分をどうにかしたいと悩んでいる、男女どちらもが読むべきだとも思った。自分はこの本で語られる「息子」に自身を投影しながら読み、とても身につまされた。
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本書で分析され指摘されているのは、公的領域における(男性どうしの)社会関係においてのみ自立している男性像である。私的領域即ちプライヴェートにおいて、いかなるケアがその男性に施されていたとしても、公的領域においては不問に付し話したがらないという。
例えば、フルタイム勤務の既婚者の男性で、自らを自律的で自立している個人だと認識しているケース。その男性の家庭の維持に必要な見えにくいケア労働は女性が担っている。この場合、男性は女性のケアに依存しているのにも関わらず、彼が自らを自律的で自立している個人だと見なしたいがために、その依存先やケアは矮小化される。彼に扶養される妻や母親、その他家族は、彼に従属していると彼は考える。
ケアや弱さとは無縁の、自律的で自立している個人であることが男性役割として尊ばれ、日本の社会で大きな価値を持ち、その反面女性が担う家庭内でのケアが軽視されてきたという指摘は、女性の政治参画が先進国の中で最も進んでいない日本の現状と照らし合わせても頷けるし、他所で何度も指摘されていることだろう。日本社会で優勢な地位を持っている男性、年収が高い男性ほど、「夫は外で働き、妻は家を守るべき」という性別役割に賛成するという。
問題は、なぜ男性が自分自身がケアされることを語りたがらないのかということである。(もう一つの興味深い指摘として、男性は「父親としての自分」については語りたがる傾向にあるのに対し、「息子としての自分」については口を閉ざす傾向にあるというのもあった。)
また、息子が虐待加害者になる背景には、介護する息子が「思わず」暴力的になってしまう姿を、「ありそうなこと」「理解可能」だと感じてしまう世間の認知の歪みが存在する。虐待被害者が母親であった場合、息子からの虐待を甘受してしまうケースが多いという。これに対し筆者は以下のように述べる。
「心身の機能の低下によって、母親が関係調整役としての機能を果たせなくなり、それによる混乱やままならなさに突き動かされて、母親を攻撃してしまう息子。それが理解可能になるのは、男性が家庭において社会関係を調整・管理してもらわなければいけない存在であり、また、生じた感情に『されるがまま』の存在であることを自明としているからこそである。虐待する息子への見方・語られ方を手掛かりにした『息子性』の分析から示されたのは、常に既に行われている依存を『なかったこと』にしながら自立と自律を志向するという、矛盾と欺瞞に満ちた男性性のありようだった。」
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ケアを必要とする個人を想定してみてほしい。
子供であったり、何らかの事情で心身が弱っている、生活する上で他者に依存せざるを得ない存在。そのような個人のケアをするとはどういうことか。
「ケアをすることとは、相手の生殺与奪権がすぐ手元にある状態で、それを行使しないことであり、言い換えれば、支配者となる/支配者であることから『降りる』実践に他ならない。」と本書は語る。
依存先になると同時に支配者であることから「降りる」ことの難しさ。
従属させることなしに相手の依存先になることの難しさ。
これらについて考える時、暗澹たる気持ちになる。なるからこそ、今回この本のことをブログに書きたいと思った。男性を批判したい気持ちが根幹にあるわけではない。
社会人を取り巻く空気が自分自身へのケアを語ることを恥とするようなものであったなら、まずそれがおかしいのだろう。
だがこれだけは痛切に感じることがある。自分へのケアを「なかったこと」にした上で、自らを自律的で自立した大人だとする、高下駄を履かされていることに死ぬまで気づかない人間が日本社会を牛耳っている場合、老若男女に対するケアに焦点が当てられる日は永遠に来ないだろう。
国語教育とは、日本語教育とは。
私はこれまで、海外から日本へ、または日本から海外へ移動してきたJSL(Japanese as Second Languageつまり日本語を第二言語として学ぶ)生徒への日本語指導や国語指導に携わってきた。
公立の学校で日本語指導員として働いていた大学院生時代、教えていた生徒が不登校になってしまったことがある。その生徒は学校の外に母語話者のネットワークがあり、第二外国語としての日本語を学ぶ必要性を感じにくいようだった。授業の内容からも生徒同士の会話のやり取りからも疎外されたその生徒は、徐々に明るさを失っていき、やがて学校には来なくなってしまった。
大人に随伴する形で移動させられたJSL生徒は、それまで時間と労力をかけて培ってきた人間関係や学びから分断され、心ならずも再スタートを切る。過酷とも言える状況の中で、再び新たに主体的に参加できる場を得ようと、必死でもがいている。
私が理想とする「国語教育」とは、彼らのその不屈の強さを尊重して引き出し、それぞれが生きていくために必要なネットワークにおける自己表現の力に昇華させていくことだ。
生徒各々が形成しているネットワークや、そこで起こる様々な物語を、たとえば文学作品を触媒にして引き出しながら、互いの自己表現を高めあうことができないだろうか。生徒の文学鑑賞に対して、なぜそう感じたのかと問いかければ、必ずその生徒の価値観や思想の基盤になる体験が顔を出す。次はその表現を他の生徒が理解できるように、生徒同士の相互作用によって推敲していく。
宮沢賢治の『よだかの星』を読んだ時、「よだかは自分自身に勝った。」という感想と、「よだかは自分自身に敗北した。」という感想が一つの教室で出たことがあった。違う感想を持つ他者の感想と自分の感想が並ぶことによって、そこにある差異に気付く、その気づきが、作品を読んでいる他者の読みと自らの読みを出入りしながら自らの価値観や思想を相対化することに繋がる。それは差異を認めることでもあり、人間関係の在り方を学ぶことでもある。
余談だが、優れた芸術作品とは何を指すだろう。個人的な定義になるが、作者の伝えたい事がそれとわかる形で表れず、直接的な表現を抜きにしていかに受け手に気付かせるか、考えられて作られているものだと思う。同じ文学作品を読みながら、全く違う感想を持つ他者が現れるというのが、優れた文学作品を共同で読む上での醍醐味と言えるのではないか。
学校教育とは、前述のJSL生徒のような立場の生徒から、力を奪い弱らせる場であっていいはずがない。むしろ学校教育に主体的に参加することができない生徒にこそ、生きる力を付与し、エンパワーメントする場であるべきだ。その際に最も的確なアプローチができるのが「国語教育」であり、「日本語教育」であり、生徒が新たなネットワークを構築するために自己表現する力を体得する環境を整えるのが自分に出来ることだと考えている。
宮沢賢治全集〈5〉貝の火・よだかの星・カイロ団長ほか (ちくま文庫)
- 作者: 宮沢賢治
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1986/03/01
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↑ この本の、第10章「移動する子どもたち」の「ことばの力」を問う 内にある『学校に通うことができないJSL生徒のことばの学びをどう捉えるか』という論文を書きました。
吉田修一『パレード』を読んで
この作品の舞台は、若い男女が5人集まって共同生活を送るマンションの一室だ。様々な職業に就いており、ものすごく話が合うわけでも、ものすごく仲が良いというわけではない。が、気まぐれにアドバイスを与え合い、助け合いながら生活している。干渉しすぎず適当な距離感を保つ毎日。理想的な共同生活だと感じる人もいるだろう。時おり若者特有のハイテンションな陽気さに包まれる彼らのやりとりには、笑ってしまうような微笑ましさがある。素直で気のいい大学生、良介を筆頭に、登場人物に感情移入しやすいのもこの作品の魅力だ。
しかし、最後のページまで辿り着いたとき、この作品の読後感は、はっきり言って「恐怖」以外の何物でもない。「5人の関係が上手くいっている」というそのことに対して、あなたは思わず本を手から取り落とす程の気持ち悪さを覚え、戦慄するだろう。注意深い読み手ならば、一見明るく何気ない文章の中に、微かな不穏さが織り交ぜてあることに気がつくかもしれない。
ホラーに最適なメディアはゲームである、とあるゲーム監督が言っていた。自らプレイすることで話を進めていくので、映画とは違って目を背けることができないからだそうだ。その点からすると、この作品の力はすさまじい。良介たちが生活しているマンションの一室に読み手を連れ込み、待ち構えている恐怖から逃げ出せないようにしてしまう。怖いものが好きな人は、ぜひ一回読んで筆者独特の親しみやすい文体に浸り、最終的にどん底に突き落とされてみてほしい。
内田樹『街場の教育論』を読んで
かつて人間は、敵や寒さから身を守るため集団で身を寄せ合って眠った。 古来、睡眠とは、寝言や歯ぎしり、イビキ、他者の体温と共にあるものだったといえる。やがて文明が発達し、人は区切られた部屋のなか分断されて眠るようになった。
しかし、それは果たして良いことだったのだろうか。眠りによって人は無防備になり、脆くて壊れやすい、やわらかな存在になる。自分がそういった曖昧なものに変化している時間を、同じようになっている誰かと共有できるというのは、安らかで幸せなことだと私は思う。
内田樹の『街場の教育論』は、子どもが同い年の仲間たちと感覚を共有すべき時に、逆に「個性的であれ」と教える教育現場の問題点を指摘している。自分の投げた一石が集団を動かすという実感なしに、「個性」は出現しない。つまり「全」なくしては「個」はありえないのに、「全」を実感できないまま「個性化」の波にのまれてしまっているのが昨今の現状であるという。「全」の価値が分からないままに、集団行動という形式のみを強制され、子どもの心には様々なストレスがのしかかる。
眠りを共有することで「全」が実感され、身体に染み付いていった時代とは異なる今、私たちはどうすれば「全」を実感することができるだろうか。勉強でも仕事でも、他者に差をつけることが求められる現代において、自分自身も「全」の中の一人であると実感する機会が圧倒的に不足しているように思う。
教育する人される人、関係なしに話し合ってみたい問題がたくさん盛り込まれている本。
鴨居玲展へ行った話
鴨居玲。
何となく気になっていた画家だったので、東京ステーションギャラリーでの展示を見に行ってみた。特に強く訴えかけてくる絵、痛烈に感じる絵があったので忘れないうちに文章化しておく。
まず、この絵、「教会」(1976)。
私は特定の宗教を信仰していない。
宗教というものが人々の生きる希望となり、その一方で互いに殺しあう原因になる、そこまで重要なものだという実感が私にはない。
鴨居もおそらく同じようなこと、つまり宗教に対する疎外感を感じていたのだろう。
浮遊し、(現実感がなく)、出入り口のない(自分がそこに入ることはできない)タテモノ。
堅牢な要塞にも見える。そしてどこか哀しく美しく、見るものの心を沈静化する。
対比的に思い出されたのが、5年ほど前ヨーロッパ旅行をした時に、お腹一杯になるくらい見た宗教画の数々だった。
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ニースでシャガール美術館に行った。ユダヤ人として生まれ、迫害される側であったシャガールが、祈る場をつくろうとして、朽ちかけた教会を見つけ、そこに飾るために宗教画を描いた。結局、教会はなくなってしまったが、彼が描いた宗教画だけは残り、それを集めたという美術館だった。
そこでは絵にガラスケースがつけられておらず、絵の前に線も引いておらず、特に熱心に監視してくる人もいなかったので、絵肌が見えるくらい近くに寄ることができた。絵具のチューブをそのまま押し付けたように毛羽立った箇所、逆にキャンバスの白い地がそのまま見えるようなところもあった。光り輝くような色彩と古代の壁画のようにデフォルメされた描写で、聖書をモチーフとした絵が描かれていた。信じる心は純粋で、人種や民族に左右されないという彼の強い気持ちが、炸裂しているようであった。
その後、イタリアへ行き、ウフツィ美術館で「受胎告知」をはじめとする綿密な宗教画を見た。圧倒された。絵の一つ一つが、私が画集などで想像していたのと比べて、とにかくデカいのだ。書き込みの密度から考えて、絵具の量を考えても、実際は半分の大きさでも描き上げることは難しいだろうと思われる作品が、六畳分くらいの面積で描かれていた。旅の同行者が呆れたように「一体何のためにここまで…」とつぶやいていた。
神と祈りに捧げるためならば、ここまで大きなものを時間と体力を費やして描くことができる。人間はそこまで無私になれることができるのだ。芸術とは、無私の決定的な瞬間をとらえたものなのだ。
そのときそう思った。芸術家の自己顕示欲が、宗教の力を借りて無私に近づくのを目の当たりにした。
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宗教は芸術にとって強烈なモチーフになりえる。
だが、モチーフがなくなった芸術家はどうするか。
鴨居玲は、1985年に57歳で自殺している。創作に行き詰まり、自殺未遂を繰り返したそうだ。展覧会では、南米やヨーロッパ滞在で得た画題や自画像の後、続く画題が見つからず、鴨居が苦しんでいたことが伝えられていた。
「私」(1982)という絵。
白いままのキャンバスを前に、途方に暮れて口をポカンと空けている画家。ムンクの「叫び」に描かれたあの人のように、とてつもない苦悩を宿しているように見える。絵の周りを取り囲むのは、鴨居がこれまで描いて、世間から評価を得た画題、モチーフたち。
このあと展示されている自画像は、この絵も含め、前に立ってみると壮絶に怖い。
ところで、「モチーフ」は元々フランス語だが、英語だとMotive、モチベーションという意味になる。モチベーションがモチーフになる。画家にとって動機と絵の主題は、切っても切り離せないということだ。
私は芸術家ではないから、ここまで優れた描写力を持ちながら、かつてのモチーフが過ぎ去り、今はモチベーションがない、という画家の苦悩のすさまじさを、理解できるといったらおこがましい。
だが、口をポカンと空けた似た顔を、近所の市役所のロビーで公園のベンチで学生服を着た姿で、見ることがある。もしかしたら自分もそんな顔して歩いてるかもしれないと思う。
ひとたびネットに繋がれば、強烈な人びとの自己顕示欲が散見される。しかし自分自分の承認欲求とは裏腹に、人びとは自己がゴミクズになってしまってもいいと思えるような、それこそ強烈な「モチーフ」を、常に血眼になって探しているようにも見える。無私と自己陶酔の間に、祈りと自己顕示欲の間に存在するもの。
鴨居の描いた「教会」の絵のように、他人のモチーフはあくまで他人のもので、自分が消滅し一体になってもいいと思えるほどの陶酔を捧げることはできない。
自分のモチーフを探しあぐねる人間が、羨ましさをこめて、それでも美しいものとして見上げたのがあの「教会」だったのだと思う。
ゲーム『クロノ・トリガー』にみる現代情勢
小学生の時に一度クリアした『クロノ・トリガー』というゲーム。確かその時のハードは、懐かしのスーパーファミコン。
ニンテンドーDSに移植されたヴァージョンの中古品が格安で売っていて、ついつい懐かしくて買ってきてしまった。
1995年発表のゲームだし、ドット絵だし、小学生の時にすでにやっているし…などと思っていたら、あっという間に引き込まれ、帰宅後ちょくちょく進めている。
そして改めてこのゲームのクオリティの高さに驚いている。
最終的な敵が「ラヴォス」という星に寄生する巨大なエイリアンなのだが、この「ラヴォス」は石器時代に隕石のように宇宙から落ちてきて、そのあと強力なエネルギーを内包しながら、主人公の住む星の地中深くに長年巣食っているという設定。(小学生当時は巨大なウニだと思っていた。バカだから。)
太陽エネルギーでは高度な文明生活を維持できなくなった人類が、代替エネルギーとして「ラヴォス」の力を引き出そうと海底神殿を建設する。が、力をコントロールできなくなって暴走させてしまう。神秘的だったはずのエネルギーは完全に負の力となって都市を襲い、壊滅状態にまで追い込む。
危険な力を引き出そうとしたせいで、高度に発達した一つの文明が破滅を迎えてしまうのだ。ちなみにその時に津波まで来る。
これって、そのまま原子力の話なのでは?今から20年前のゲームなのに、3・11を予期していたみたいでちょっと怖い。
そしてもう一つ驚いたのが「魔王」というキャラクターについて。
中盤までは悪役として出てくるキャラなのだが、途中から「ラヴォス」を倒すために協力する仲間となる。
大事な主人公サイドのキャラクターのにっくき敵役だったこの「魔王」が、なんと仲間になるというのが、小学生ゴコロに興奮で、細かい設定をよく理解していなかった。
だが大人になってから見ると「魔王」はなかなか複雑なキャラクターである。魔王軍を率いて人間相手に戦いを仕向けてきたが、本当は「ラヴォス」の狂ったエネルギーに大切な家族を奪われ、その復讐のために「魔王」になっていたので、最終的に主人公側と利害が一致しともに戦うことになる。
「魔王」が装備する武器や防具は「ぜつぼうのかま」や「ぜつぼうのマント」で、キャラクター自身のヴィジュアルのネガティブさも半端なく、BGM「魔王のテーマ」の悲壮感もすごい。
「ぜつぼう」から生まれた「魔王」。やっていることはテロリストと同じなのだが、単なる悪役ではなく、歴史の生んだ悲劇に巻き込まれた人物として描かれているあたり、現代の世界情勢に通じる複雑さを感じさせる。肝心な力の説明が「魔法」だからファンタジーになっているが。
このままだともう一度クリアすることになりそう(おとなげない)…なので、とりあえず『クロノ・トリガー』は大人がやる価値のあるゲームだ!と声を大にしていいたい。
死を生み出す「深淵」に落ち込まないためには?
イスラム過激派が関わる事件についての報道と、それを取り巻く反応を見て、ここ1、2週間ずっと暗鬱な気持ちになっている。そんな中、漠然と感じていたことを文章にしてくれた人がいた。
小説家の高橋源一郎さん。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/08/genichiro-takahashi-terrorism_n_6638674.html
”「テロリズム」は絶望から生まれる。希望がないから破壊にすがるしかないのだ。だから、いくら滅ぼしても、希望がない場所では「テロリズム」は再生する。”
”彼らの最大の特徴は「他者への人間的共感の完璧な欠如」だ。だが、これは「テロリズム」の形をとらずに、ぼくたちの周りにも広がっている。いちばん恐ろしいのはそのことだ。死を産み出す「深淵」は、実はぼくたちの近くにある。”(リンク先本文より引用)
今の日本では、誰かが「世界平和」という言葉を使うと、一斉に「綺麗ごと」「脳内お花畑」のような露悪的なレスポンスが返ってくる。
だが、21世紀という時代について考えたとき、これから特定の国・地域・人々だけが富や安全を享受できる世の中になっていくだろうか?答えは否で、むしろ、どこかで起きている破壊と絶望が、一人勝ちを好む人々を、どこでもグローバルに襲う時代になっていくだろう。
だから、人間が絶望して加害者になる過程を他人事だと思わない。遠回りに見えても地道で草の根的な行為を続けていく。それが、中東で取材する中でISILにシリアで拘束され、殺害されてしまったジャーナリストの後藤健二さんがやっていたことだと私は個人的に理解している。
そしてそんな後藤さんに対し心無い言葉を吐く人たち。簡単に言えば、「他人に迷惑をかけるな」という趣旨のコメントを何百回も見た。
これまでに何度、この現象が起きているだろう。何か事件が起きれば被害者の方にさえ迷惑をかけるなとコメントする人がどうしてこんなに増えたのだろう?
生きている限り人間は他の人間に影響を与えずにはいられないのに、なぜ息を殺して身をひそめるような、生の喜びを真っ向から否定するような生き方を推奨するのだろう。
私は、本当に小さい子供の時は、自分が生きていることに対する全力の肯定感とともに生きていた気がする。
だが大人になるにつれて、「人生の酸いも甘いも」の「酸い」のところを味わって、生きることを肯定できないようなダークな深淵に落ち込むことも確かにある。
そのダーク面に、常に落ち込んでるような思想の持ち主が多すぎないだろうか?高橋さんいうところの「死を生み出す深淵」をこんな平和な日本で抱えて生きている自分について、どうか冷静に客観視してほしい。
私は何となくこんな風に感じている。本当はみんな、悲しくて仕方がないんじゃないのだろうか。本当は、同じ日本人が殺されたことがつらくてイライラしているんじゃないだろうか。無力感と罪悪感に打ちひしがれて攻撃的な反応をしてしまっているのではないだろうか。
だが、絶望したから攻撃的になるのでは、やっていることがテロと同じだ。
だとしたら、日本人は無力感と罪悪感とどう向き合って生きていくべきなんだろう。そこから高橋さんのいう生きるに値する世界を発見するためにはどうしたらいいのだろう。
最近そればかりずっと考えている。
いとうせいこう『想像ラジオ』を読んで
東日本大震災を題材にした、いとうせいこうの『想像ラジオ』を読んだ。
この小説は、直接被害に遭った人というよりも、その外側にいて、何もできず歯噛みした、つまり被災地にいなかった被災者に手向けることが第一目的で書かれたのではないかと感じている。
被災していない被災者とはどういうことか。これはナイーブな問題で、知るかと言われるだろうし、身勝手だし、当事者の方々から怒られるかもしれないが、感じたことをありのままに書いてみたい。
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2011年3月11日、私は同僚たちとパソコンの前に集まり、何が何だか分からない灰色の凶悪な粘体に町が流されていく映像を、震えながら見ていた。場所はシンガポール。
地震の情報はすぐさま海を越えて伝わり、日本国内では恐らく規制されていたであろう、津波に人が呑み込まれていくような映像や、欠けた原発の姿が、シンガポールでは繰り返し報道されていた。
その映像を見聞きするのは、自分が根本から失われていくように恐ろしかった。でも、母国で起こっていることだから目を逸らすことができない。辛いのにニュースを見続けてしまう。
あの日から、被害を受けていない地域で震災の様子を見聞きした人々の心も、どこか欠けたままだと私は思っている。
実際に被害に遭われた方々と違うのだから、いくら涙を流しても、その悲しみは欺瞞であると、他者そしてもう一人の自分から指摘されるような気がした。本当に辛い目に遭った人たちがいるのだから、被災地にいなかった無傷の人間が悲しむなんてとんでもないと、そう言われるような気がした。
その一方で、3月11日以降、道を歩いているだけで、「お前は日本人だろう、お前の家族は大丈夫なのか!?」と全く知らない人から声をかけられることがあった。励ますために自宅の昼食会に招いてくれるシンガポール人もいた。日本人というだけで過剰なほど慰められた。
私はその場にいてシンガポールの路地を歩いているのだから、もちろん無事で被災しているわけがない。それでも、故郷の被災が一人の人間の心に重大な影響を与えるということを理解し、悲しんでいるだろうと、シンガポールの人々は見えない傷に向かって手を差し伸べてくれたのだった。
しかし、3月末、東京の実家にバタバタと帰省した私が見たのは、シンガポールとは対照的な現象だった。そのことに触れないように、一見冷静、だが何か押し殺しているような顔で歩く東京の人々。
東京で震災のことが気になりつつも、ギクシャクしながら自分の「日常」をやり過ごすことしかできなかった人がどれくらいいただろうか?本当は大声で泣いて不安だと叫びたいのにそんなことは出来ない、という具合に。
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「言われてみれば確かに僕はどこかで加害者の意識を持ってる。なんでだろうね?しかもそれは被災地の人も、遠く離れた土地の人も同じだと思うんだよ。みんなどこかで多かれ少なかれ加害者みたいな罪の意識を持ってる。生き残っている側は。」
いとうせいこう著作の『想像ラジオ』には上のような一節がある。
いとうさんが感じたことを私も感じている。
もっと具体的に言うと、生き残った側としての罪悪感、更に欺瞞という声を恐れあの時きちんと悼むことができなかったことへの罪悪感、そういうものが今の日本を特に東京を、覆っている無力感と閉塞感の根幹にある気がしている。
被災地のために悲しむのがおこがましいから、これ以上見ないようにと努めていた。お前に悲しむ資格なんてないという声に怯えているが、
そもそもなぜ悲しみや悼みという個人的な感情の営みに難癖をつけられなければならないのだろうか。
生き残った者には死者の声は届かない。被災者の本当の辛さは被災者でないと分からない。だから私たちはその悲しみに口を出してはいけないのだろうか。
一緒に悲しんでもいけないのだろうか。
それは違う、一緒に悲しんでもいいのだ、悲しみが大きなメディアにもなりうるのだと言ってくれたのがこの『想像ラジオ』という作品だ。
今からでも遅くはないから、悲しみ悼みと一緒に未来をつくっていく気持ちになれないものだろうか。
悼むことはおこがましいからと目隠しをする人が増えれば、被災地とそれ以外の地は、どんどん分断されて行ってしまう気がするからだ。
角田光代『対岸の彼女』を読んで
facebookがわりと好きだ。
巷では、リア充の自慢のための媒体なんて言われているのを目にするし、実際にその側面があると感じている。
それでも、なんとなく好きだ。
私がfacebookで繋がっている人、すなわち「友人」は、中高一貫の女子校に通っていた時に同じ学年だった人、つまりほぼ女性で構成されている。実は、在学時代に話したことがなかった人もいる。それでも、卒業後10年以上経って、彼女らがどのような動向をたどっているかを見ることが、変な言い方だが私の癒しになっている。
女性の人生は多様。自分の選ばなかった人生をたどる彼女らの生き方を、自分の人生のアナザーヴァージョンとして重ね合わせて見ているところがある。
しかし、それだけではない。以下からは角田光代さんの小説の書評という形を借りてそのことを話したい。
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角田光代の作品『対岸の彼女』では、二つの物語が交互に語られている。その一つが、家庭環境にストレスを感じ、逃げるようにして一緒に過ごしていた「葵」と「ナナコ」が、互いの存在なしには生きられないくらい密着していき、やがて離ればなれになる物語である。
人は誰でも自分の中に圧倒的な他者、つまり自らの考え方や生き方に影響を与える大きな存在を持っているのではないか。多くの子どもにとって親はそのような存在であるし、中高生になってからは友人がそのような存在になるケースが多い、ようだ。
私にも中高生の頃ずっと一緒にいた友人がいた。毎日他愛もないことでバカ笑いしたかと思えば、なぜ生きるのかというような哲学的な問題を、額をくっつけるようにして話し合ったものだ。その友人とは今でも交流があるが、あの時のように訳もわからず、くっつきあっていた時間は大人になった今もう味わえないだろう。
一度、一つになるかのようにくっつきあった存在とは、必ず別れるものだ。しかし、それは必ずしもネガティブなことだとも言い切れない。
それはなぜか。
私は一度でもかかわった友人たちのことを考える時、その人たちがどこかで何かをやっていると考えるだけで、それが自分の勇気や生きる希望になるような、許しを与えてもらっているような気持ちになる。無宗教である私とって、そういう人たちの存在はもう、神さまのようなものだ。時を経て一緒にいられなくなったとしても、向こう岸に彼らがいると思うことが私の生きる活力となる。対岸に、遠いところに神さまがいることが私の心の支えになっている。
対岸の神様。
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ということで、私にとって、自分の選ばなかった人生を選んで生きている彼女たちは、変な言い方だが「神様」なのだ。
一緒にいる時間が終わりを告げ、別々の人生を歩むことになっても、一緒にいた記憶自体が生涯の宝物となるような存在。
この記憶の宝物と、神様を思う気持ちとがあれば、どんなに遠い場所でたとえ一人きりになっても、なんとか生きていける気がする。
ダイアログ・イン・ザ・ダーク
http://www.dialoginthedark.com/
私が行った際は、赤坂にある廃校になった小学校で開催されていた。
一体どう説明したものか。本当に何も見えない、上下左右もまったくわからない暗闇の中で、目の見えない人に導かれて進んでいく、という形式なのだ。
このワークショップは完全予約制なので、一回8人ほどのメンバーしか参加できない。私は友達と参加したのでそのうち3人が既に顔見知りだったが、あとはもちろんその場限りの知らない人たち。
一番最初に自己紹介をして一応お互いの名前を把握し、あとはそれだけの関係の他人と、真っ暗闇の中、身を寄せ合ってじりじりと進んでいくというとんでもないツアーだった。
あんなに広い暗闇をいったいどうやって作ったのか?
学校の体育館か何かだったものに真っ黒な布をかけてすっぽりと覆ってしまい、なおかつ雨戸と言う雨戸を全部締め一切の光を遮断したのか…。
とりあえずそんな自分の手すら見えないような暗闇の中を、階段、教室からはじまって土の地面が川になっているような場所、上がったり下がったり、這いまわったりくぐり抜けたりしながらひたすら進む。
今、一生懸命その時のことを思い出そうとしながらこれを書いているのだけど、視覚として残っているのは「闇」だけなので大変つらい。思い出せるのは「感覚」のみだから。
茫漠とした闇に放り出され、自分と周りの境界線がアヤフヤになり、自分が外の世界に溶け出してしまうような不安とか、
まるで目隠し鬼のように人の存在を求めて彷徨う自分の頼りなさとか、
誰かにぶつかった時の安心感とか。
視覚障害のある方が、必ず1グループに一人、ガイドとしてついてくれているので、グループが本当に霧散してしまうことはない。そのガイドが8人のメンバーの誰がどこにいるかすぐ把握しているからだ。彼は「前方に~があるから気をつけてください」とか「~さんのあたりに○○がありますね」とか、グループだけでなくその周りの空間も把握していた。
最初は本当に濃い暗闇に慌てふためいていていたため気がつかなかったのですが、ガイドは常に遅れがちな人の後方に立ってサポートしたり、教室の扉を開ける時誰かが体を挟まないように戸袋の前に立ってガードしていたりもしていた。
ガイドが大変頼もしい存在だったことは確かですが、それだけでなく、その日一緒に参加した知らない人たちの存在がとても有難く温かかった。
ダイアログインザダークでは、誰かとぶつかった場合必ず自己紹介することがルールであり、私はなぜか何度もWさんという名前の30代くらいの女の人とぶつかって何度も自己紹介しあっていた。きっと、友達になれたのだろう…
もちろんツアーのあと自然解散したので再び会うこともないだろうが、あの時の共同体と、あの時のあの人たちと、もう会わない、行動を共にすることがないと思うと不思議な気分になる。
それだけ、「他人」という存在の持つ意味が「見える世界」とは異なっていた。
視覚障害のある人がない人たちのガイドとして導くことから、「障害者―健常者との助けられる―助ける関係が逆転する」というような形容の仕方もあるのかもしれないけれど、
赤の他人がこんなに愛しく思えることがあるだろうか。その衝撃の方が忘れられない。
暗闇の世界の共同体とでもいうべきか…。
まあとにかく不謹慎なモノ言いなのかもしれないけれど、視覚を奪われた者が蠢く暗闇というのは、私にとっては物凄くエロティックな体験だった。
「アナと雪の女王」「思い出のマーニー」に見る王子不在の世界
最近公開された2つの映画を見て、印象的だったことを簡単にレ
どちらの映画も驚くほど男性の影が薄い。お城にいるお姫さまを
特に「アナ雪」が大ヒットするというこの現代ニッポンの土壌には、男なんてダメよ!という日本人女性の心情がある気がしてならない
反比例して強く描かれるのは女同士の関係だ。特に「母ー娘」「
どちらもすごく面白かったし見てよかったと思うんだけど、なぜ
三島由紀夫『禁色』と切腹
常々、「切腹」って何だろうと思っていました。新渡戸稲造や千葉徳爾によれば、古来日本人は腹が人間の本心を内部に存在させる場所であるという意識があり、腹を切ることで自分の本心があかき清きものであることを証明しようとした、ということらしいです。
三島由紀夫の最後が割腹自殺であることはよく知られてますが、三島由紀夫に切腹の作法を教えた中康弘通という人の説によれば、切腹が好まれるのは切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感を伴うから。という考え方もあるみたいです。
人は、というより三島は、なにを思ってそんなにも「切腹」という行為に魅せられていたのでしょう。
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三島作品の『禁色』は、
醜い容貌を持ち女性に裏切られ続けてきた老作家・俊輔が、同性愛者の美青年・悠一と出会い、彼を利用することでこれまで自分を裏切ってきた女性に復讐する、というお話なのですが、物語が進むうちに元来はその気のなかった老作家が美青年に恋情に似たものを感じだすこともあり、当時は同性愛をモチーフにしたショッキングな作品という受け取られ方が大半だったようです。
ですが、「ベニスに死す」が単なるホモ映画ではないように、この小説も同性愛が扱われてはいますがそれだけではない読後感がありました。
例えばこんなくだりがあります。
『彼(俊輔)の確信によれば、芸術作品は自然同様に決して「精神」を持ってはならなかった、いわんや思想をや!精神の不在によって精神を証明し、思想の不在によって思想を証明し、生の不在によって生を証明する。それこそは芸術作品の逆説的な使命である。ひいては美の使命であり性格である。』
『俊輔は終生果たせなかった理想的な芸術作品の制作を企てた。肉体を素材として精神に挑戦し、生活を素材にして芸術に挑戦するような、世にも逆説的な芸術作品…』
『結局俺は、悠一が誰のものでもないことが怖いのだ。それならどうして俺が?いや、俺ではいけない。鏡をまともに見ることさえできない俺ではいけない…それに、作品は断じて作者のものではない』
…つまり老作家俊輔は、自分が女性に愛されなかった青春の復讐を悠一を使って果たそうとしただけでなく、自らの芸術作品として悠一を見つめ愛していたことが伺えます。
悠一は俊輔にとって美の化身であるために、美を表現する芸術家である俊輔は、下品な言い方ですが悠一を「モノにする」ことができません。
最終的に俊輔は自死を選ぶのですが、終盤にこんなくだりもあります。
『此岸にあって到達すべからざるもの。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで片時も安眠できない。』
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以下からは「切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感」という説の、「エロティシズム」という言葉に注目して考えてみます。
中沢新一が「純粋な自然の贈与」で、
『プリミティブな社会では、女性は富を生産する可能性を秘めたヴァーチャルな価値物と考えられていた。社会集団は、富を生産するヴァーチャルな可能性を交換しあっているわけだから、ここでは本当のところ贈与の現象が起こっているのである。贈与はものを結びつけるエロスの力を持ち、エロスは動きながら、みずからの力を更新していく。人が人に、贈り物を贈る。そのとき贈り物となった「もの」と、それを贈ったり、もらったりする「ひと」の間には、深い実存的なきずなが発生する。』
と述べているのですが、
このように、人やものを結びつけるエロスの意味で、切腹による出血と内臓露出がエロティシズムの快感を伴うから』という説に「エロティシズム」が使われているのなら、私は少し切腹の意味がわかったような気がするのです。
つまり、例えば「禁色」の主人公の俊輔が小説という方法で達し得なかった此岸の美は、「精神」への挑戦であった。
精神と自然、すなわち精神と美という対立を結びつけるエロティシズムが、彼の場合、自死という方法だったのではないでしょうか。
そして自死の中でも割腹という行為は、新渡戸稲造が言うように『人間の本心が腹にあるからそれをさらけ出して潔白を証明する』というよりはむしろ、人間のうちにひそむ「自然」を曝け出す行為であるのかもしれません。
そういうやり方で三島は此岸にありながら手に入らない「美」に手を伸ばそうとしたのではないでしょうか。
「精神」といういつの間にかに高尚なもののように定義されているものと、自分の身体との乖離を感じることは私にも時々あります。
こんな長い理屈っぽいものを書いたりしてますが、実際自分のおなかの中がどのようになっているか良く分かりません。でも「精神」と身体性の間の隔たりを解消し二つを統合するためには、自死と同じくらいの何かが必要なのだとしたら。
「精神」が一人歩きしているようなこのインターネット空間と、おいてきぼりにされている人間の身体のこと。
「精神」の名のもとに学習者の身体を束縛する教育のこと。
色々考えなくちゃならないことがありそうです。
最後に、フーコーの『監獄の誕生』より引用
「ある政治解剖の成果にして道具たる精神
そして身体の監獄たる精神。」
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,田村俶
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